「お前か?神の乙女を手折った男は。……おや、獣の臭いがするね。その肌の色、そのおぞましい目………人でなしと契ったか、愚かな女だな、菱雨。」
身体の芯に響くような低い声で、老女は言い捨てました。
「人でなしとはずいぶんだが、その通りではあるな。悪いがこの女は俺の獲物だ。見るとすでに十分痛めつけているではないか。ここらでもう、捨てたらどうだ。」
「横取りしておいて、その言い草。獣に人の道理は分からぬだろう。我々は殿上より管理を任されておる。菱雨の身は我々のものよ。」
「ふん、ならば、連れ去るのみ。」
菱雨の肩に、痛いほど男の指が食い込みます。
じ、と老女の目が、菱雨の怯えた目を捉えました。
「お前の所業はすでに神の知るところであろう。どうだい?お前の目はまだ、見えるのかい?まさか掟を忘れたわけではあるまい、菱雨。」
意地の悪い笑みを浮かべ、老女は二人に近づきました。
「このままでは、お前の目から光が去った上に、お前の愛しいこの男も雷に焼かれるだろう。いいのかい?この男が死んでも。」
「か、雷に……。」
凍りついた様に菱雨の動きがとまりました。
薄暗がりで見た母の儚く白い顔と、温かい老使者の笑顔が脳裏をよぎりました。
ぎこちなく固まる菱雨を見た老女は、先程とはうって変わって猫撫で声で囁きます。
「今ならほぅら、間に合う。」
ヒタヒタと老女の声が、菱雨の耳に染み込みます。
「お前の目はどうせ、放っておいても見えなくなるのだ。ならばせめて、愛した男だけは救いたいとは思わないかい?助けてあげるんだよ。……ほら、その手を離しておやり?」
菱雨は。
菱雨は、男の手を離しました。
ニヤリと笑う老女。
菱雨を捕まえようと、皺の多い手を伸ばしました。
「俺が離すと思ったのか?」
バサリと大きな羽音がして、あたりに羽根が散らばりました。
舞う羽根に視界を遮られた老女は、憎々しげに叫びました。
「おのれおのれ!もう少しだったものを!お前こそ、この様な盲いた女など、必要ないであろう!何故そこまで執着するのだ!」
「さぁな。」
そう言いながらも再び腕の中に菱雨をかき抱いて、老女から距離を取る男。
「菱雨、言っただろう。お前の目は、全ては俺のものだ。」
腕の中で震える菱雨の身体の冷たいこと。
熱を分け与える様な抱擁をし、男は顔を寄せました。
ぞくりとするその目に射抜かれて、菱雨は力が抜けてゆきました。
「目が見えなくなる?声すら聞いたこのと無い神などに奪われるくらいならば、いっそ俺が、」
喰ってやろう
そう聞こえたのは、耳ではなく頭の中。
男の唇が優しく菱雨の瞼に当たり、とたんに焼け付く様な熱さと痛み、そしてまばゆい光が菱雨の目を襲いました。
「あああぁっ!!!」
「…闇の色は俺の羽根の色。ならば怖くはないだろう。そして俺が雷に打たれ散る時は、菱雨、お前の目と一緒だ。」
男の腕の中には、一匹の大きな白い蛾。
光を纏いハタハタと頼りなさげに翅を動かしています。
「なんと………菱雨か……それが……」
掠れた老女の声を掻き消すように、ザァザァと突然、激しい雨が御機殿の屋根を叩き始めました。
バリバリと恐ろしい音で庭木に雷が落ち、逃げ惑う人々の悲鳴が響きます。
咄嗟に鵲に姿を戻した男は、その羽根の中に白い蛾を隠し、地を蹴り飛び上がりました。
天井を掠め柱の間を縫い、外へ!
「逃げれると思うでないぞ!」
二人に、老女の金切り声は聞こえませんでした。
鵲は、大きく羽ばたきながら、雨の中を力強く進みました。
小高い丘の中腹、桑の茂みに蛾を優しく落とし、その周りを二度旋回した鵲は、再び地を蹴り、空高く舞上がりました。
目の見えない蛾は、何を聞いたのでしょうか。
遠く雷鳴と、引き裂くような鳴き声と、雨の音。
一瞬にも、永遠にも感じられる刻が過ぎて行きました。
いつの間にか雨は上がり、桑の葉の上で蛾は、朝陽に翅を乾かされていました。
気まぐれな風に煽られ、蛾は浮かび上ります。
そのまま何かを探すように、ゆらゆらと揺れて、空の彼方に消えて行きました。
…………続く
0コメント