「今日のは、お前の村から来た絹糸だよ。あの村のは質がいい。さぞかし美しく染まるだろう。」
手慣れたように準備をしながら、老女はいいました。
液を張った盆の中に浸る、生成りの糸。
その上に手を翳した菱雨の指を見て、老女は、おや、という顔をしました。
男に噛まれた傷跡がそこには残っています。
ハッと、手を引っ込めた菱雨は消えいるような声で応えました。
「鵲に……噛まれてしまっ
て……」
「……そうかい?気をつけないと
ねぇ。ならば反対の手を。」
言われるままに手を出し、来るべき痛みに身構えました。
チクリと、棘が指に沈みます。
一滴、二滴、と菱雨の赤い血が滴ります。
「………え?」
盆に広がる波紋を、感情の籠らない目でボンヤリと眺めていた菱雨の顔が、徐々に強張っていきました。
「?! これはどういうことだ!一体何故!!」
同じ様に盆を見ていて狼狽えた老女がザバリと盆から糸を引き上げました。
その手にあるのは………黒い糸。
まるで、あの男の衣のようなーー
目を見開きガクガクと震える菱雨に老女は掴み掛かりました。
「菱雨、お前、何をした?」
声もなく、ただ首を横に振る菱雨の手を取り、老女はもう一度、別の盆にその血を垂らしました。
指を伝う血は確かに赤いのに、盆に溶け糸に染みるとたちまち闇夜の色に変わります。
力いっぱい頬を打たれ、倒れ伏した菱雨に、恐ろしい顔で老女は振り向き低い声で言い放ちました。
「お前、………契ったな?」
菱雨は恐怖のあまり、そのまま気を失ってしまいました。
目が覚めた時には、菱雨は冷たい土間の上でした。
真っ暗な見慣れない天井に、菱雨は絶望しました。
きっともう、ここから出られず死んでゆくのだ、と。
乱れた袂から、お后様から頂いた香袋が覗きます。
カチ、と水晶のぶつかる微かな音がして、菱雨は自分の犯した罪の重さを思い知るのでした。
けれど、恋を知ったこの身。
罪を問われこうして地に伏している今も、想いを馳せるは、あの男の元。
ギシギシと床を踏みしめる音が聞こえ、老女が姿を見せました。
倒れる菱雨に近づき、ぐっと前髪を掴み上げました。
「ずいぶんと驕ったものだねぇ、菱雨。恩知らず、身の程知らずとはお前のこと。もう機を織る事は許されないよ。ならばさて、その身をどうしてくれよう。神の怒りで光を奪うだけでは、もの足りないわ!」
グイグイと前髪を引き上げられ、一緒に弱った菱雨の身体も持ち上がります。
そうしておいて、老女は突然手を離すと、菱雨はしたたかに地に打たれました。
「……お前の処遇はゆっくり考えることにしよう。しばらくはそこで転がっているがいい。」
足音が遠ざかり、恐怖で強張った身体から力が抜けました。
もう、起き上がるのも億劫な程、菱雨は疲れ果てていました。
寒い……
もう、このまま眠ってしまいたい。
涙で、土の色が変わる頃。
「待たせたな、菱雨。」
そう、声がして、フワリと身体が持ち上がり、温かい衣に包まれました。
菱雨は懐かしくすら感じる匂いに、しがみつきました。
「行くぞ。」
菱雨を抱く男の腕に力が入ったその時。
「何処に行く?」
突然、老女の声が響きました。
………続く
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