鳥獣奇譚  ぬばたまの 9



祖母はどこからか行李を持ち出し着飾り始めました。

父が言うには、どうやらそれは母の持ち物だったようです。

今はもういない母が、ただ一つ私に遺してくれていたもの、それは美しい蒔絵のついた櫛でした。

高価そうで、とても父が買ったものとは思えませんでした。

なので、父の前で使う事が憚られ、自分の文机の抽斗にずっとしまい込んだままにしておりました。

祖母は、それを見つけ欲しがりました。

私は、どうしても其れを渡す気にはなれず、いっそ肌身離さず持っている事にしました。

私とて年頃の娘。

母譲りだという豊かな黒髪に、その美しい櫛を通すのは、密かな楽しみの一つでありました。

さくりと地肌を軽く引っ掻き、髪の間を梳る感触は、うっとりするほど。

良い子だ、と私の頭を撫ぜる父の手とはまた違う、どこか甘美な動きを持っていました。

そんな私を上からジッと見つめている赤い目を、私はもう振り向かずとも感じられる様になっていました。

決して嫌な気持ちにならないのが、不思議と言えば不思議。

慣れ、というには熱過ぎる視線。

同じ屋根の下に、競う様に着飾る女がもう一人。

祖母の面影をチラリとも見せず、まるで他人のような異質さを纏う女。

日に日に、祖母の私を見る目が険しくなって行きます。

父は時折、途方にくれた様な顔をして家を出たきり、暫く戻らないこともありました。

気持ちが波立った日には美雪ちゃんを誘い、祠のある水辺によく行きました。

水面を見ていると不思議と心が凪いでゆきます。


その日、美雪ちゃんを待つ少しの間、ふと悪戯心を出した私は、水神様の祠の中を覗き込みました。

以前見た時にはくすんだ鏡があるだけでしたが、なんとその時は覗き込んだ私の顔が映るほど、鏡面が澄んでいました。

誰かが、磨いたのでしょうか。

思わず手を延ばし鏡に触れたその途端。

瞬きの間に、すべての景色は消え、立ち込める靄の中に私は一人立っていました。

足元はキンと冷たい水に浸っています。

私は戸惑いました。靄の中に目を凝らすも何も見えません。

すると直ぐに密やかな水音がして、誰かが近づいてきました。

見上げる様な偉丈夫。

どこか懐かしげな顔をして、太い指でこの髪を梳り、私を見つめるその目はホオズキの色。

荒々しくもその胸に掻き抱かれた私は、驚く事も忘れて目を閉じました。

どんどんどんと、鼓動が耳に響いています。

どんどんどん。どんどんどん。



「みわちゃん?」

美雪ちゃんの声でハッと目を開けた時には、いつもの景色の中、祠の前で立ち竦んでいました。

「みわちゃん、髪に何か付いてるよ。光って綺麗なもの。」

そっと手でとって見ると、掌で煌めく蒼黒い、鱗。

途端に背中が粟立って、私は悲鳴を飲み込みました。

せっかく会えた美雪ちゃんにさよならもそこそこに、踵を返して家に走って帰りました。

息も整わないまま、見上げる梁。

二つの目が合いました。

ズズッと音がして柱を伝って降りてくる蒼黒い大蛇。

ゆっくりと近づき足元から這い上がって来ます。

震えているのは恐ろしいからでは、ありません。


ゴン!と音がして私の肩に何かが当たりました。

見るとまだ、熾火の残った炭の塊。

憎悪に燃えた目で、祖母が私に投げ付けた物でした。

「何故私を選ばない!」

祖母は、私が聞いたこともないような声で叫びました。

「何時も何時も、貴方が選ぶのはその女だ!」

何故だ!と狂った様に炭を投げ付ける祖母を、私に巻き付いた大蛇が静かに見つめています。

ガツッと炭の欠片が私の頬を打ったのを合図に、大蛇はスルスルと姿をあの靄の中の男に変え、力強い腕に私を抱いたまま、家を後にしました。

大きな足で数歩も歩いたあたりで、おぞましい断末魔の様な声が響いてきました。

慌てて振り向こうとする私を、男は腕の力を強めることで制止し、構わず歩き続けました。

私は何処へ連れて行かれるのでしょう。

どんどんどん、という鼓動を聞きながら私は再び目を閉じました。




………続く

夜半の月

書くことの衝動に翻弄される、こっつんの小説サイトです。

0コメント

  • 1000 / 1000