ほんの一か月の間に、あんなにたくさんいた蛍はいなくなってしまった。
いい年して、と母親は言うが、私だって妙齢の女性。
憎からず思っている人に「蛍を見に行こう。」なんて誘われたら、思わず期待したくもなる。
例え、彼の誘うメンバーが課のほとんどの人数でも、万が一ってこともある。
ゆ、浴衣とか着て行った方がいいかな、あーでもこないだ髪切っちゃったばっかりだし、かわいい浴衣ヘアできないかもしれない。
どうしようどうしようと、浮かれた声を出したら、何だか逆に少し落ち着いてきた。
分かっている。
万が一、なんてありえない。
彼はきっと蛍を見て言うのだ。
「あー、娘たちにも見せたいなぁ」
無邪気な顔で、父親の顔で。
周りのみんなも言うだろう。
「課長の娘さんたちじゃ、蛍よりアイスの方が嬉しいんじゃないですかぁ?」
なんて。
上司である彼に、一方的に想いを募らせはや三年。
想っても想っても届かないのは、承知の上の恋だった。
奥さんだっていい人だし、まだ小さい二人の娘さんたちに対しては、それこそ目に入れても痛くないほどの溺愛振り。
酔うと必ず出る、課長の「娘は嫁にはやらん発言」はすでに会社の飲み会での鉄板ネタになっている。
実は私、お酒の席で(酔った勢いというか)一度告白したことがある。
その時は確か、トイレから戻る課長を居酒屋の廊下で待ち伏せて、二番目でいい、なんて口走った。
けれども。
うん、とも、すまない、とも言わずに、彼は一番大人で残酷な方法をもって私を拒んだ。
何事もなかったことにしたのだ。
そう、私の目を見ず、私の声も聞こえなかったふりをして。
それでもすれ違いざま、彼はいったん立ち止り、私の頬を指の背で撫ぜた。
慰めのつもりだろうか。
無邪気な足取りで皆の待つ席に戻る課長の後ろ姿を、私は見れず、トイレに駆け込み少し泣いた。
あの、私の頬を撫ぜたあの手が、私の涙を拭うものだったら良かったのに。
次の日、酔いの覚めた私は愕然とした。
毎日会社で会うのに、なんて軽率なことをしたのだろう。
まったく、我ながらがっかりする。
すれ違う度、言葉を交わす度、想いが溢れないように抑えるのにひどく骨が折れる。
いっそこのままストレスとやらで窶れて仕事なんてできなくなれば良いのに、残念なことに私は結構タフらしい。
悩んだり苦しんだりしているのも、同僚にすら見破られないまま、ついに三年も過ぎてしまっていた。
私と課長の間には、在ったことも無かったことになる、不思議な溝が黒々と横たわっている。
誰だ。
八月生まれが、<現実主義>だなんて言った占い師は。
まったくもって当たっている。
私と課長の唯一の共通点である誕生月が、この三年で、一番切ない季節になった。
あの日見た、彼がきれいだと言った蛍は、きっとみんな死んでしまった。
どうせなら私の想いも一緒に連れて逝って欲しかったのに。
彼がどんな顔で、『愛してる』というのかを、私は一生知らずに過ごす。
そのことに安堵を覚える自分がいるのもまた、事実なのだ。
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