木彫り人形の所用(1) ~『カフェCC』はじめての事件~



午前中の薬局は忙しい。

とくに休み明けの月曜日は、個人経営の薬局と言えども目の回るような混雑ぶりだ。

エミは白衣の裾を翻しながら、調剤室をクルクルと移動して歩く。

分包機の立てる音、待合から微かに聞こえるお客さんのおしゃべりや咳、処方薬の説明をしている同僚たちの声が、アンバランスな波長を作り、エミのいる調剤室までさざ波のように押し寄せる。いつもの薬局の風景だ。

時計は今ちょうど正午を指している。

事務机の上に溜まった未処理のレセプトの山を前に、今日何度目か分からない小さなため息をついた。


だってエミはお腹が空いていた。


休日の昨日は、特に予定もなかったので、趣味で通っているパン教室で習ったフォカッチャのおさらいに精を出した。

ローズマリー、岩塩、かぼちゃ、オニオン、とうもろこし・・・・盛り上がって作りすぎて、そして夫と二人食べ過ぎて、今朝はなんだか胃が重かったりした。

朝食も野菜スープで済ませたし、この調子じゃお昼もきっと食べれない、そう思ったエミは普段はお弁当を持参することが多いのだか、今日は水筒だけをもって出勤したのだ。

したのだが、やっぱりお腹がすいてきた。11時を過ぎるころにはもう、空腹すぎて半分いじけたような心持にすらなっていた。

もう、子どもじゃないんだから・・・エミは自分自身に苦笑いをしながら、コツコツと目の前の処方箋を1つ1つ片付けている。

エミの昼休憩は13時から。

(今日はぜったいCCに行くんだから)

お気に入りのカフェの、絶品パスタの上でとろけるチーズを思い浮かべながら、処方薬の説明をするために、待ち受けているお客さんのいるカウンターに向かい、気合を入れ直した。



エミが薬剤師として働くアモール薬局から、街道を渡って少しのところにある『カフェCC』に着いたのは、13時を10分ほど過ぎた頃。

昼休憩がしっかり1時間取れるのがうちの薬局の良いところやわ、と常々エミは思っている。

街道に差し掛かった時ちょうど信号が青に変わり、踏み出した一歩が白線を踏んで,思わず鼻歌が出そうになる。

カランカラン、と鳥を模したドアベルが鳴って、エミは美味しそうな匂いのする店内に体を滑らせた。

いつものバイト君に案内され、カウンター席に通される。素早く水が出てきて、エミは慣れた様子で椅子に腰を下ろした。

いらっしゃい、いらっしゃいませ、と厨房からオーナー夫婦の声が掛って、「お腹空いて死んじゃいそう」とエミが笑う。

大好きなチーズナポリタンを注文し、すでに結露が生まれ始めたグラスの水を一口飲んだ。

今は7月、暑いが好きな季節だ。梅雨が終わりかけいよいよ夏が来るぞ、という季節。何だか無性にワクワクする。

今日のデザートはなにかな、あ、サクランボのミルフィーユかー、美味しそう・・・とオーナー夫人手書きのメニューを眺めていると、そばにアルバイトの男の子が寄ってきた。

バイト君は今しがたお客さんの帰った隣のカウンター席を片付けながら小声で「エミさん、事件っすよ」と告げる。

「え、なになに?また、アレ?」

「そう、また、アレです」


事件、という割には朗らかに笑うこのバイト君、名を優也という。

今年で25歳になる彼は大学をでてからも定職にはつかず、ここ『カフェCC』でアルバイトをしている。ほかにも夜はコンビニバイトも掛け持ちしているらしい。まあ、いわゆるモラトリアム男子というやつである。

モラトリアムとは、保護されるべき子ども時代から、社会的責任のある大人へと移行する段階に設けられた、人生における猶予期間のこと。

そのため優也は、スタッフや常連客の間では「ユウヨ」と呼ばれていたりする。

呼び始めたのは、もう一人のアルバイト兼ご意見番「サイトウ」(女性である)だが、優也は最初のうちこそ、ユウヨとよばれて変な顔をしていたものの、しばらくたつと「なんか、許されてるみたいで、いいっすね」と破顔したものだ。

「ほら、そうやって大人が甘やかすから」とか、「許されてないって自覚あるんだ・・・」とかさんざん言われたものの、本人はどうやら新しいあだ名を気に入っている様子。

そんなユウヨが、窓際の席に顔を向けながら、「みてくださいよ、」とエミの目線を促す。

その視線の示す先には、はめごろしの窓がある。たっぷりと陽の光が入るよう、大きめに作られた窓は、上部がステンドグラス調になり、店の雰囲気を柔らかなものにしている。同じ型で三つ並んだ窓の下にはそれぞれテーブル席があり、目指すものは一番奥の窓際に在った。

そこには猫なのかミミズクなのかよく分からない形の木彫りの人形が置かれている。

『カフェCC』のオープンの際インテリアの1つとして、近くの雑貨屋『ひだまりねこ』で購入したものだ。ロシアのマトリョーシカを彷彿とさせるコロンとした姿をしているので、オーナー夫人の純美には「マトゥ」と名付けられた。発音的にはちょっと疑問形風に語尾を上げる、という注釈付きだ。

目が大きく、キョトンとしたユーモラスな表情が見えるはずであったが、今はそのキョトン顔は見えない。

窓の外を向いているのだ。

いつもはこちらを見ているはずなのに。

11時の開店前は確かにこちらを向いていたことを、ユウヨが開店準備の際に確認している。始めのうちは、ただの悪戯だと思っていた。(もちろん今もただの悪戯だと思っているのだが)

でも、お客さんの誰かが面白がって後ろを向かせているにしては頻発しているし、人形に触るのが可能な席に、毎回特定の人物が座っているわけではない。それに店の奥側なので、厨房からは死角になっており、フロアにスタッフが出ていても、レジやほかの席の対応などをしていることも多く、その席ばかりを注目しておくわけにはいかないのも事実である。

とくに悪質さも感じられないため、特別な対処はしていないものの、なんだか気にはなるというもの。

誰が?何のために?

小さな疑問が積もり積もって、いまやこの「こっちを向いてよマトゥ事件」は『カフェCC』のちょっとしたナゾになっているのだ。


「お待たせしましたー」

注文したチーズナポリタンがカウンターに届けられ、ナゾに向かいつつあったエミの意識が急激に戻って来る。そう言えば空腹で仕方なかったのだ。

「わあ!相変わらず美味しそう!!いただきます」

さっそく食べ始めるエミに、

「死んじゃう前につくれて良かった」

と、厨房からオーナーの夕起夫(ゆきお)が声をかける。

店内はにぎわっているが、注文のピークは過ぎたのか厨房は落ち着きつつあり、中の夕起夫はおしゃべりをする余裕ができたようだった。

その名前に相応しく、いささか眠そうな顔をしている夕起夫はきゅっと帽子をかぶり直して、妻の純美に何か言っている。(多分、換気扇回して、とかだろう)

それに対して純美はわざと変な顔で応じているから、カウンター越しにやり取りを眺めていたエミは、せっせとパスタを食べながらも、思わずプッと吹き出しそうになった。

オーナー夫人である純美は若い頃、役者を目指して劇団に所属していたことがあるらしい。女優と言うよりはコメディアンの方が向いてるのでは、とすら思わせる楽しい女性だ。普段はおっとり(ぼんやり?)していて、とにかくコロコロとよく笑い、エミの夫からは「笑い袋みたいな人」と評されていた。

大らかで、感動しいで、オーバーリアクションで、のんびりしていて、人の話を聞いていないし細かいことは気にしない。それでも、接しているとなにか「クセになる」感じで、常連客の心を掴んでいるのだ。

まぁ、自由な感じが見ていて楽しいのだが、夫の夕起夫の気苦労はちょっと分かる気がしないでもない。じっさい些細な言い合いや小競り合いは、ちょくちょく厨房で勃発している。

でも、経営上の細かいことを言って純美に変な顔でアカンベーされたとしても、諦めたように肩をすくめる夕起夫の顔は、なんだか恋する顔だったりして、常連としては「痴話ゲンカか!」と一応の突っ込みを入れておくのがこの店のルールの1つとなっていた。


先日やっと一回目の結婚記念日を迎えた新婚のエミは、ここでこのおかしな夫婦のやり取りを見るたびに、「夫婦で同じ職場ってどんなだろう」と考える。

エミの夫は、気象予報士で地域の管区気象台に勤務している。真面目で優しいけれど、何というか朴念仁で、そこがとっても(いじると)面白いと思う。

正直、付き合っているときは空ばっかり見て何が楽しいんだろう、とか、もっと刺激的で楽しいことないかな、とか思っていたけれど、付き合いが長くなるにつれ、穏やかで真摯な愛情を注いでくれる彼の優しさが、じわじわとエミの心に染み込んでいった。

それと同時に、何か面白いことは、与えてもらうのを待つよりも、自分でどんどん見つけて行った方が楽しめるタイプだということにも、エミは気付いた。

もちろんこれは、彼からの静かな愛情で満たされているからこそ、気付けたことなのだろう。

会社での彼はどんなだろうか。自分に見せる穏やかな顔じゃなく、もっとビシッとキリッと厳しい顔なんかしてるんだろうか。

同僚の世間話にも、いちいち律義に頷いている夫を想像して、エミは小さく笑う。

彼と同じ職場だったら、とっても楽しいんじゃないかな。でも上司だったら嫌だな、私怒られるの嫌いだし・・・。

・・・・エミはドSなのである。


美味しいものはなくなるのも早い。

エミのチーズナポリタンはもう最後の一口になっている。お腹が満たされて、体が温かくなってきた。

1人ほくほくしていろんな幸せをかみしめていると、

「エミちゃん、デザートとドリンクどうする?」

と絶妙なタイミングで純美が声をかけてくれたので、さっき狙っていたサクランボのミルフィーユと、温かいアッサムティーを注文する。

気付けば店内のお客さんもだいぶ捌け、カウンター席に座るのは、エミしかいなくなっていた。


エミの昼休憩はあと25分。デザートを食べながら、ちょっとナゾ談議をするには調度よい時間である。





・・・続く

夜半の月

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