群青 <spitzリスペクトシリーズ>


ビー玉が転がるように恋に落ちた。

緩く長い坂道をコロコロ転がって、彼女の靴にコツンとあたった、そんな感じ。

例えばそれは、埃っぽい道に馴染む白いスニーカーで。

僕のビー玉はそこに異質な群青を落とす。



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同僚に、海に行こうと誘われた。

「暇でしょ?今度の休みは海だな。」

なぜ?と聞くと、夏だから、と応える。

その単純さが心地良くて、海なんて一体何年振りだろう、と僕は柄にもなくワクワクした。

まだ泳ぐには早い、との同僚の言葉に、タオルと簡単な着替えを用意する。

小さなバッグに収まる、休日。

どれほど遠いのか分からないけど、不思議と今すぐ海が見たくなった。

当日の朝、集合場所の駅に着いて僕は驚いた。

男女合わせて総勢18人。

声を掛けたのは三人だけだったのに、と同僚はのんきに笑う。

「海の力はやっぱ偉大だなー」

マイクロバスでも借りようか、と本気で言い出す同僚をなだめて、それぞれ車に分乗する。

5人乗りの僕の車には3人が乗った。

みんな同じ部署で年も近く、気易い。他愛もない話をしながら、晴れた朝のドライブを楽しむ。

カーラジオからは気の利いた曲も流れず、助手席に座るのは恋人でもない(むしろヤローだ)。

それでも、全開した窓から入る風で浮き上がりそうだ。

途中休憩を入れて、二時間ほど走っただろうか。

防風林が増えてきた。幹の曲がった松がいじらしい。

長々を横たわった海の青に並んで走る。

近づき、遠のき、海沿いの国道は曲がりくねる。

もしかしたらこれも、海からの強風で曲がったのかもしれない。

一人クツクツ笑っていると、助手席のヤツが歓声を上げる。

どうやら駐車場に到着したらしい。

ほとんど乱暴にそれぞれの車は停まり、馬鹿みたいにドッと車内から皆が飛び出してくる。

出走を待つ競走馬さながらに、並んで砂浜を見下ろした。

初めに走り出すのは、誰だろう。

社内で見るのとは明らかに違う、穏やかな顔つきで皆、笑い合う。

言い出しっぺの同僚が、ついに重そうな荷物をそこいらへんに放り出し、海へと駆け下りていった。

こうも大所帯になると面白いことに、個人の性質、性別に寄って、持参するものが違う。

カメラを持つもの、バーベキュー慣れしてるもの、既に水着なやつ。

何故か大量のおにぎりを披露するやつ。

パラソルの下に引っ込んで、本を読むようなのは、今回は参加しなかったようだ。

3DS、持って来なくて正解だったな…と密かに僕は嘯いた。

まるで十代の頃のように、手放しで笑った。

裸足で感じる、砂の温度と波の永遠。

海原に向かって誰かが何か叫んでいる。

負けじと僕も、大声で叫んだ。

大きな声の出し方をまだ、忘れていなかったことに、ほっとする。

そして僕は思う。

今日、この青を見て良かった。

人知を超えた海の大きさは、人の営みの小ささを決してあざ笑ったりしない。

そのきらめく群青に、すべてをゆだねてみたくなる。

僕がまだ優しかった時の心を、取り戻したいんだ。

語れるほどのたいそうな夢だとか、転んでもカッコつけながら起き上がるような愚かさとか、ひそかに、でもしっかりと握りしめていた誇りとか。

あの頃たしかに持っていたいろいろなものを、僕は失ってしまうところだった。

今ならきっとまだ間に合う、手に入る。

―――もう、だいぶ小さくなってしまってはいるけれど。



大人になるほど、無邪気な時間は早く過ぎる。

半分ほどはこのまま海に残り、キャンプをするらしい。

帰りは違ったメンバーを車に乗せた。

恋は夕暮れ、と昔誰かが歌っていた。

だからだろうか。

帰り道、見慣れたあの同僚の無防備な居眠りを、顔にかかる長い髪を、直視できなかったのは。



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あの日からまた幾日も経ち、僕は残業の日々を送る。

ほどんど明かりの消えたフロア。

メガネを外し、座ったまま背伸びをする。

あの砂の、熱が欲しくてPC本体に指を伸ばす。

わずかに振動するそれは、生き物のように僕の人生に寄り添う。

あの日から変わったのは、苗字ではなく僕の名前を呼ぶ人が増えたこと。

それと、

あの同僚とは何故か前のように話せなくなったこと。

僕の目に映る、ディスプレイの青。裸眼で見る今は、あの日の空の色。

ホントの夏がくる前の、少し霞んだ空の色。

疲れで重い体を引きずって帰ってきた部屋はいつもより心なしか優しく僕を迎える。

明かりのついていないその場所は、親密な暗さを保ち、PCで疲れた僕の目を癒そうかとしているかのようだ。

熱いシャワーを浴び、缶ビールを一本かっ食らってベットに潜り込む。

そして僕は夢を見た。

久々に深く眠ったその明け方。

湿った砂に続く足跡たち、さざなみの音、たくさんの笑い声。

無防備な顔、頬に落ちるまつ毛の影、陽の光にどこまでもきらめくあの群青。

儚く香りが、残った気がした。

ぼんやりと目覚めて、その気配を、香りを頭の中で繰り返す。

そして突如、何かに急かされるような気持ちが湧き上がり戸惑う。

勢いよく立ち上がって、顔をバシャバシャ洗いたくなるような。

窓を開けて全身で風を受け止めたいような。

この気持ちは何だろう、と今更なことを声に出したくなる。

それは分かり切ったこと。

ただの同僚だったのに、もう上手く話せなくなってしまった。

彼女のあの大きな笑顔が見たい。

――もう一度、海へ。

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「暇でしょ?次の休みは海だな」

給湯室で声をかけた。

いつかどこかで聞いたようなセリフを繰り返してみる。

すごく驚いた顔をして、じっと僕の目を見つめ返すその明るい瞳がなぜかとても懐かしく感じて、鼻の奥がツンとする。

なぜ?と君はいう。

好きだから。と僕は応える。

もう、気付いしまった。

大きなものに、揺られたいんだ。

君の笑顔で、未来のことを好きになりたい。

「海に行ったら――」

と告白ついでに僕は言う。

「大きな声で君の名前を呼ぶ。何度も。こだまするように。」

「海に行ったら――」

と君はいう。

「私も大きな声で名前を呼ぶ。

相手がいないと、こだまにならないから。」

それから、僕はきっと、鳥を追いかけたり、砂浜に咲く花を見つける。

「嘘つき」

と笑う君の声は甘い。

「そんな無邪気じゃ、ないでしょう?」

そして二人で笑い合う。

いつもの見慣れた給湯室が、それだけで違った場所に見えてくるから不思議だ。

そっと君の手を握る。

温かく、乾いた君の手のひらに、確かにさざなみの音を聴いた。

青く染まる、その音を。


いつか君の白いスニーカーが、僕の群青に染まればいい。




fin

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