コト、とテーブルに置かれた大ぶりの皿をじっと見つめる。
そうしながらも去っていく店員の足音に聞き耳を立てるなんて、人ってなんて器用なんだろう、などと余計な考えが浮かんだりもする。
今はただ、目の前のこれに集中したいのに。
良く冷えた水で口内を少し潤して、いよいよカトラリーケースに手を伸ばす。
緊張感からか寧子は小さく唇を引き結んで、ふんわりとした半熟オムレツとツヤツヤのハヤシソースがせめぎ合うその領域に、良く磨かれたスプーンを差し込んだ。
いつもの味、と分かっていても一口目はいつもドキドキするのだ。
スプーンの上にできたイエローとブラウンの小山からは、うっすらと湯気が立ちのぼり、「できたてなんです」と、優しく微笑んでいるかのよう。
寧子は、そんな小山にそっと微笑みを返し、スプーンを口に含んだ。
卵のまろやかさとソースのコク、塩気、甘み、どれも絶妙のバランス。あまりの美味しさに寧子はひそかに歓喜に震える。
テーブルの上の皿では、スプーンがこしらえた陥没によって両者の均衡が破られ、トロリとなし崩し的に卵とハヤシソースがそこはかとなくみだらな関係性を結んでいた。
「はぁ・・・・」
美味しいなんて言葉も一緒に飲み込んでしまったのだろう、もはやため息しか出てこない。
一口目の余韻が消えないうちに、二口目をすくう。こうなるともう、止まらない。
駅前の商店街にある雑貨屋『ひだまりねこ』を経営する寧子は、ただいまランチの真っ最中である。
『ひだまりねこ』から徒歩5分、ダッシュで2分のここ『カフェCC』は寧子のお気に入りのお店。お気に入り過ぎてもう、毎日来ている。時には友達や夫を誘って夜も来るほどだ。
寧子がここに通うようになったのは約半年前。店舗に飾る雑貨を求めに『ひだまりねこ』へオーナー夫婦で訪れてくれ、話したことがきっかけだ。以来、同世代の夫婦が営むこのカフェは、寧子にとって、気安く居心地の良い空間となった。
そう広くもない店内は、ランチ時ともなると混雑し、美味しそうな匂いとさざめく会話が空間を満たす。今のご時世珍しくなったワンコインのランチメニューが一番の人気だ。
厨房で腕を振るう夕起夫と、スイーツ&おしゃべり担当の妻、純美。そして、いつもテーブル席のお客さんに捕まって全く戦力にならない純美の代わりに、厨房と客席を忙しく行き来するアルバイトが二人いる。
アルバイトの1人、サイトウサンが空になったグラスに水をつぎ足しに来た。忙しいのにフロアの様子もちゃんと見ている、それでいて押し付けがましくは感じない。接客の基本がいき届いているのは、スタッフ教育の賜物だろうか。
(眠そうな顔してるくせに・・・なかなかやり手ね)
と寧子はここからは見えない厨房の夕起夫を思い浮かべた。
ふと、純美の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
そういえば今まで目の前のオムハヤシにばかり集中していたせいか、周りの物音が気にならなかったが、食べ終わってみると後ろの席のドリンクの氷が経てる音も聞こえるほどだ。
デザートとドリンクを頼もうとスタッフを探して店内を見回すと、カウンター席のお客さんと、目が合った。
どうしてかものすごくこっちを見ている。あ、ニコッとされた。
思わず脊髄反射で笑顔を返した寧子である。
うすら笑いのまま、(え、なになに?知り合いだっけ…?)と考えていると、先ほどのサイトウサンが、デザートメニューをもって近づいてきた。
カウンターからの視線は振り切って、
「今日は何がおすすめ?」
と寧子が聞くと、サイトウサンは、
「んー、今日はロールケーキに気合入っていたようでした」
とおかしそうな顔で応える。
こうしてスタッフとも楽しくやり取りができるのも、常連客の気安さである。
直感で料理する、スイーツ担当の純美はランチタイムが始まる寸前にいきなりクリームを泡立てたりし始めるから、カフェCCの「本日のおすすめデザート」はアルバイトと言えども、何になるかギリギリまで分からないこともある。それはそれで楽しいものだけれど。
「じゃあ、そのロールケーキでお願いします。あと、アイスコーヒーと」
少々お待ちください、とわざとよそ行き声を出して去っていったサイトウサンがおもしろくて、寧子の口角があがる。
今日も良い天気。
窓から見える空は夏特有の淡い青で、風があるのか街路樹の揺れる様がダイナミックだ。
カラスでもない、スズメでもない小型の鳥が一羽、切り取られた風景を横切っていった。
窓の内側には、木彫りの人形がある。カフェCCのインテリアの多くは寧子の「ひだまりねこ」から購入してくれたもので、この窓際にあるミミズクの置物も、その一つだ。独特の色使いが個性的で、店の雰囲気にピッタリだと思う。
背面の模様でミミズクが羽根を畳んでいる様子が上手く表現されている。
・・・あれ?背面?
後ろ向きに窓際に置かれている木彫りの人形に、寧子は少し違和感を感じた。
この木彫り人形を購入する際、純美は、「顔がおもしろい!」と言っていなかったか。
どうして見えないように飾っているんだろう。道行くお客さんに見てもらうため?実際うちの店では、外から見えるように窓際にディスプレイしているのだから、そう言うケースもたしかにあるだろう。
しかし、カフェCCの場合、寧子が今座っている最奥の席側の窓の下はすぐ植え込みがあって、今は葉ばかりになった低木のつつじがこんもりと影を成している。
道行く人にアピールするなら、もっと目に付きやすい窓際に置けばいいのに・・・。
デザートのロールケーキを待っている間に、つらつらとそんな他愛もないことを考える。
そういえば、こういうちょっとした不思議を解き明かすのが好きだ、なんていう友達がいたっけ。
読書好きで、変わり者のあの友達は今何をしているのだろう。
修行の旅に出る、とどこかに姿を消してから全然会えずにいる。まぁ、きっとどこかの空の下、どうせ本を読んでいるのだろう。どこで読んでも変わらないだろうに。
ずいぶん仲良くしていたから、いなくなってからはずいぶん寂しい思いもしたけれど、彼女のことについて、寧子はもう考えないことにした。
だって、彼女は「またね」と言って旅だったのだ。ならばきっとまたいつか必ず会えるはずだから。
窓枠の木彫り人形から浮き上がったちょっとした思い出が、寧子を甘酸っぱい感傷へ引きずり込む。
頬杖をついて少しの間目を閉じると、間の抜けた友達の笑顔が頭の奥に浮かんだ。
「お待たせしました」
サイトウサンが、注文したロールケーキとアイスコーヒーを運んできた。
記憶の中に沈みそうだった意識を引き戻すこの甘い香りは桃だろうか。飾られたフレッシュミントが何とも可愛らしい。
「おいしそうだね」
と寧子の目が輝く。
サイトウサンはにやりとして、たぶんね、と嘯いた。
サイトウサンと寧子は、同年代であり実は旧知の仲である。
ずうっと以前、まだまだ二人が若い頃、とある飲み会の帰り道で、酔っぱらって片方失くしたハイヒールを探しているサイトウサンがいた。そしてたまたま通りがかった、これまたほろ酔いの寧子が一緒に探してくれたのが縁の始まりだ。
30分も暗い地面をウロウロと二人で探し回って、ようやく見つけたときはすっかり酔いも冷めていた。
結局は、「どっかで飲み直そう!」と意気投合して以来、プライベートでも行き来するような仲になったのだ。(この話をはじめて聞いたユウヨは「え、サイトウサンにも若い頃があったんっすか!」と口走り、ひそかに足を踏みつけられていた)
サイトウサンはここでカフェCCでのアルバイトのほかにも、何だか物書きのまね事(本人談)をしていて、バイトが上がりになったらそのままお客さんみたいな顔をして、空いている席に座る。そして賄いを食べつついつも持ち歩いているパソコンを開いて何やかパチパチとやっているか、小難しい本を読んでいる。愛読書は「堕ちよ、生きろ」の坂口安吾。
そう言えば、さっき記憶の底にねじ込んだ友達と、サイトウサンは少し似ていると思う。本が好きで、何かエラそうなところ。あと皮肉屋なところとか?
寧子は、サイトウサンが「たぶん」美味しいといった、ロールケーキを一口に食べてみた。しっとりしつつも軽いスポンジが口の中で柔らかくほどけていく。一口じゃ足りない、もっと、もっとと欲しくなる味だ。桃の甘酸っぱさとクリームのミルク感がどこか懐かしい。
なによ、「ずいぶん」美味しいじゃない。
満足げに笑みを浮かべて寧子は、向こうでテーブルを拭いているサイトウサンにちらりと視線を送る。ニヤ、と音がしそうな顔でサイトウサンはその目線に応えた。
ああ、今日も心地いい。
寧子は至福のひとときをこうして過ごす。
人付き合いやものごとの良いところを探すのが得意だ。
自覚はないものの、寧子はずっとそういう気質だった。
毎日を穏やかに、丁寧に過ごすには、もっとも大切なスキルと言ってもいい。
しかし、周りの良いところを見つけるわりに、自分の価値にはなかなか気づけなかった。
だからこそ、雑貨屋は向いていると思う。
掘り出し物を見つけて、自分のお店に並べる。「ひだまりねこ」の商品の多くは一点もので、取り扱っている作家もさまざま。時には自分で作ったりもする。
売れていくたび、自分のセンスが人々に受け入れられていると実感できて、雑貨屋を始めてからの寧子は、内側からの自信を着実に育みつつある。
寧子はコーヒーを一口飲んで、窓際に置かれた木彫りのミミズクをながめた。
この木彫り人形は3年ほど前夫婦で行った北海道旅行の時、札幌で偶然立ち寄った蚤の市で見つけたものだった。
ロシアやアイヌなどの特徴が入り混じった変わった二体の対の置き物で、一目で気に入って仕入れたのだ。
対に作られているものは、対のまま仕入れるのが寧子の信条だ。だって離してしてしまうとかわいそうじゃないか。ちょっと感傷的過ぎかな、なんて自覚はあるけれど。
木彫りのミミズクをそっと手に取って、見る。
素材のぬくもりと重量が、手にしっくりとおさまって、存在感がある。
カフェCCで大切に飾ってくれているのだろう、寧子の「ひだまりねこ」にいたときよりもツヤツヤしているかもしれない。
ひっくり返してミミズクの顔をのぞき見ると、物言わぬまるい目が寧子を見上げていた。
「あの・・・すみません」
先ほどカウンター席にいてこちらをじっと見ていた女性から寧子が声をかけられたのは、そのときだった。
・・・・・・続く
0コメント