思ひせく心のうちの滝なれや落つとは見れど音の聞こえぬ
(古今和歌集 雑歌930 三条の町)
「本当は海にでも行こうと思ってたんだ。」
そう文貴くんは言うけれど、向かっている先はスーパーで。釈然としない思いを抱えないでもない私はただ、文貴くんの後ろをついて歩いた。
思いがけず休みが取れたと文貴くんがはしゃいだ電話を寄越したのは先週の金曜日のことで、私の仕事が休みである月曜日の今日、どこに出かけようかとほんのさっきまで話していたところだった。今朝、あわただしく私のマンションにやってきた文貴くんは、開口一番言ったものだ、「天気、良いよ」と。
けれど結局何も決まらないまま、私たちは近所のスーパーでカートを押している。玉ねぎ、ピーマン、豆腐、豚肉、それと缶ビール3本。意外にも料理を面倒がらない文貴くんが何を作ろうとしているのか私にはさっぱりわからない。少なくとも、このカートの中身から連想される料理は、あいにくのところ私には思いつきそうになかった。
「ねぇ、なにを作るの?」と私は聞いた。
本当は「どこかに出かけないの?」と聞きたかったのに。「お出かけ用のワンピースだって、ちゃんと用意してあるんだよ」と、そう言いたかったのに。
2年も付き合っている彼氏にそんなことも言えない私は、いつも彼の気まぐれに揺らされている。基本的にまじめで、これといった面白みのない女であると自覚している私には、その揺れがどこか心地良く、そしてまた窮屈でもある。
窮屈なのは、彼の気まぐれを受け入れるたびに、私の気持ちをいったんどこかにしまい込まなくてはいけなくなってしまう、そんなところが。時には願望だったり、甘えだったり、食べたい料理や、行きたい場所だったりする。しまい込んでぱたんと蓋をして、何でもないように笑っていなくてはならない。
カートにはいつの間にかシリアルが追加されている。あ、今日は泊まっていくつもりなのかな、とその時は初めて気づく。煩わしいな、とも。
それでもまた、私は自分の心を気持ちを一旦どこかにしまって、文貴くんを泊めるのだろう。読みかけで続きの気になっているミステリーをひっそりと本棚に戻すように、押されるように買ってしまったちっとも好みじゃないカットソーをクローゼットの奥深く隠してしまうように。いろんなものにぱたんと蓋をして、「しょうがないなぁ」とまた笑顔を見せるんだろう。
想われている息苦しさと、一人寝の寂しさを天秤にかけたなら、私は結局息苦しい方を選ぶのだ。いつだってかならず。
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