馥郁とした香りが辺りに漂います。
菱雨は二つの小さな水晶の柔らかな煌めきに、ため息をつきました。
香木も水晶もとても高価な物、ということは分かりますが、それだけではない、何か魅せられるような心地がします。
眠る間際に、菱雨は掌にのせうっとりと眺めるのでした。
そんな菱雨の様子を、上から見つめる一対の目。
鵲です。
あの日老使者を、その姿が見えなくなるまで見送ったものが居たのなら、きっと気付いたはずでしょう。
その頭上に、鵲の見えないことを。
鵲は庭木の枝から、菱雨の姿を…いえ、その手にある水晶を、じっと見つめています。
鵲とはいえ、鴉の仲間。
光る物を好む鵲は、自分の主が匣から大事そうに出した物が欲しくなりました。
バサリと黒い羽を広げると、浮かび上がる白い模様。
まるで夜空に浮かぶ運河の様にも見えました。
枝を蹴って飛び上がり、ゆっくりと旋回しながら夜空に吸い込まれたかと思うと、急降下して地面に向かい落ちて来ました。
そして、その躰が地に触れる瞬間。
一人の男の姿に、変わっていました。
黒い髪、白い肌。
漆黒の衣を着た男。
音もなく菱雨の部屋に近づき、そっと中を窺いました。
急にろうそくの炎が揺らめいたのを見て、菱雨は身を硬くしました。
「……誰が、おられるのですか?」
その怯えた様な声の途切れる前に、漆黒の男は突然部屋に入り込み後ろから菱雨を捉えました。
片手は菱雨の口元に。
もう片方は、香木の袋を持った手に。
水晶どうしがぶつかってカチリと音がしました。
「声は出さない方がいい。」
後ろから聞こえる声に、菱雨は恐怖を抑えなんども頷きました。
空気を求め菱雨の顎が上がったのをみて、男はようやく口元に置いた手を緩めました。
咳き込む菱雨の目が、男の顔を捉えました。
目が鋭く、鼻の高い……まるで幼い頃にお話で聞いた、渡来人の様です。
その鋭い目が、菱雨を見て細められたかと思うと、男は握ったままの菱雨の手首にその唇を押し付け、来た時と同じ突然さでそのまま部屋を出て行きました。
後に残された菱雨の混乱といったら。
強い力で握られていた手首が赤く熱を持っているかのようです。
菱雨は、恐怖に跳ねる胸を必死に抑えました。
掌の中の香袋が、菱雨の体温と汗を吸い香りを増したようです。
遠くからバサリと羽音がしました。
それから、三度月が沈んだ次の夜。
再びあの男が菱雨の部屋に現れました。
もしかしたら怖い夢だったのかもしれない、と思い始めていた菱雨は、愕然とした恐怖に慄いていました。
またも口元を押さえられ、思うように息もできません。
叫び声を無理に飲み込み、コクコクと頷きます。
間も無くすると手が緩みました。
ギュッと手を握り締め、菱雨は恐る恐る男に尋ねます。
「あなたは一体…誰ですか?」
黒の男は笑ったのか、口を歪めました。
「俺は盗っ人。お前のその、光る石が欲しい。」
「光る、石。す、水晶のことですか?でも、これはお后様から頂いた大切な物で……」
香袋を握り締めた菱雨が言い終わらないうちに、ぐっと距離を詰めた男は、菱雨の眉間をザラ、と舐めました。
そして鋭い目をわざと細め、一睨みすると、
「お前、命は惜しくないのか。」
と囁きました。
ザワリと菱雨の背中が粟立ちました。
押さえらてもいないのに、息ができません。
「まぁ、いいだろう。また、来る。」
黒衣を翻し男は、唐突に消えました。
………続く
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