それからしばらくの時が過ぎました。
季節は冬。
春から秋に掛けて取れた絹糸が、丁寧な精錬と染色を経て、機織女たちの元へ届きます。
来年の冬まで、それを一年をかけて布地に織っていくのです。
機織り機の扱いには慣れたとは言え、来てまだ間もない菱雨は、生成りの布地ばかり織っていました。
それでも、染色を施された絹糸のその艶やかな力強さよ!
その手触りに、故郷の村を思い出さずにいる日はありませんでした。
なぜか眠れない夜は、闇の中に糸を繰るあの母の白い横顔を、菱雨は探すのでした。
毎日毎日、織りました。
キー、パタン
キー、パタンパタン
夏のたぎる様な暑さにも、冬の攫われる様な寒さにも、機織女たちの奏でる音は変わりませんでした。
来る日も来る日も、織り続けーーー
いつしか菱雨は匂い立つ様な乙女に成長していました。
肌はあくまで白く、内側から輝くようです。ぬばたまの髪が豊かにそれを縁取ります。
けれども菱雨は、自分の美しさなど、知る由もありません。
菱雨を見て、切ないため息をつく男も、嫉妬に身を焦がす女も、周りには誰もいないのですから。
機織女達は皆、飼われ管理され大切にされる、棚の中のお蚕の様。
無色の衣を纏う自分たちの手から、美しい布地ができる。
自分たちと同じ年頃の高貴な娘達を飾る、美しい布が。
機織の乙女達は、何を思うのでしょうか。
都に佳き事あり、と言ぶれがあった夏も終わりのある日。
御機殿に帝より、特別華やかで上等な布を、とのお言葉が下されました。
春までに100枚の反物を仕上げねばならなくなりました。
20人余の機織女が寝食を惜しんで働いても、やっとできるかどうかの数。
それでも、やらなければなりません。
それが、機織女なのですから。
そんな忙しいある日。
菱雨は、新しい布を織る前の準備をしていました。縦糸を所定の位置へ行き渡わたらせます。
と、その時。
誤って指を傷つけてしまいました。
用意していた、糊付けされた上等な絹糸に、菱雨の血が掛かりました。
不思議なことに、かかったのはほんの数滴な筈なのに、ジワジワと絹糸全体に広がって、艶やかな朱色に変わってゆきます。
青くなった菱雨は、糸を持って急いで先の老女の元に走りました。
老女は菱雨を激しく叱責しました。
「貴重な糸になんという事だ!!本当ならば罰を与えたいところだが……だが今は少しでも人手が惜しい。急いで織り場にお戻り!」
菱雨は低頭して、機織り機の前にに戻りました。
そして今度は失敗しないように、注意深く準備をして、新しい布を織り始めるのでした。
菱雨が去ってから、老女は部屋で独りごちていました。
「……しかし、美しい色だねぇ。数滴でここまで染まるとは……。ふむ……。これ、誰かおらぬか?今すぐ染め工をここへ。」
間もなくやって来た染め工頭と、すっかり陽が暮れるまで、何やらヒソヒソと話しておりました。
……続く
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