女の屋敷を出ると、外はことのほか明るい。
ふと見上げた空には、蜜色の月が出ていた。
「今時期の月はなんだか、小さいですね。」
夜気の冷たさにふるりと肩を縮ませ、不安げに目を上げる。
「こんなに小さい光でも、大丈夫なのかな・・・」
「大丈夫さ。どんなに小さくても、待ち焦がれたものだろうからね。」
振り向いて見た女の屋敷からはもう、明かりは消えていた。
すぐにでも発つつもりなのだろうか。
この村に来た時からずっとあたりを覆っていた生臭い空気も今は澄んで、星々の瞬きすら聞こえるようだ。
儚げな月光が女の笑顔と重なった。
「ならば、俺たちも後を追おうか。」
そういって間借りしていた家に戻り出立の準備をする。
敷かれた布団を畳み直していた堅双の背に、突然ふわりと温もりが被さった。
「蒼?どうしたんだ。」
「・・・先生は死にたいの?」
着物の背に顔を押し付けて、蒼が震える声を出す。
先ほど女に語った話をずっと気にしていたらしい。
「死にたいわけではないさ。ちゃんと刻を進めたいんだ。生きて、死ぬまでの時間を大切に過ごしたい。」
「だって、術が解けたら、急におじいさんになって死んじゃうかもしれない。」
「あはは、急には嫌だな。」
不安にさせて悪かったと、大丈夫だと、涙を拭い抱きしめてやれたら、どんなに良かっただろう。
しかし、自分自身でも良く分からないのだ。堅双は何も約束してはやれない。
約束などしたところで、その言葉は蒼の野性を縛るだけだろう。
抱きしめる代わりに、万感の思いを込めて堅双は、自分の腹に回る蒼の手をポンポンと叩いた。
「さ、行くよ。君も見たいだろう、あの花が開くところを。」
しばらくの間動かなかった蒼は、何度か額をグリグリと堅双の着物にこすり、やがて静かに離れた。
今まであった温もりの分、堅双の背が冷えた気がした。
支度を終えて家を出た。
もう夜半も過ぎているので、里人への挨拶も憚られる。
いや、もしかしたら久々の月夜に移動の準備をしているかもしれない。
「ここは、蟹の里だったんですね。」
「そうだね。成長過程で海と川を行き来する蟹は、俺は藻屑蟹しか知らないけれど、あの里人たちの服装を見るとあながち間違いではないのだろう。」
「僕、蟹、食べちゃったことあります。」
「うん。美味かったろう?いろんな味を知ることは君を豊かにするよ。」
「でも、固くてチクチクしてて・・・僕はもう食べないことにします。」
「おや、情が移っちゃったんだな。」
くくっと堅双が笑うと拗ねたような顔をして、蒼の手が堅双の手を掴む。
まぁこれくらいはいいか、と堅双は小さなその手をギュッと握り返した。
里から川までは、昼間に来た時よりもうんと早く着いた。
術が川まで及んでいたのだろう。
今は、川面に映りこんだ小さな月が水辺の葦を下から照らしている。
その葦の間から、一匹、二匹、と緑褐色の蟹たちが出てきた。それは連なったり、追い越されたりしながらも、ぬかるんだ川べりを川下へ歩いて行く。
泥のついた足を器用に捌き、重さを感じさせない素早い動きに堅双はしばし見惚れた。
生き物の神秘が胸にせまる。
「先生!早く追いかけましょ!」
弾かれたように顔をあげ、堅双は先に行った蒼を追って歩き出した。
蟹の動きに合わせてしばらく川を下っていたが、次第に川幅が広くなり水量も増え流れも幾分か早くなってきたようだ。
ここまで来ると、蟹たちは水に入り流れに身を任せる。
歩いているところを夜行性の動物たちに襲われる危険が減るように、海まではこうして運ばれるのだろう。
「あのお花の蟹さん、もう行っちゃったんですかねぇ。」
「残念だね、開くところを見たかったんだが。」
「それともまだこれから来るのかもしれません・・・あっ!!!」
来し方を振り返って川面を眺めていた蒼が、驚いたような声を上げる。
「先生!あれ!!」
見ると、夜と同じ色をして寝そべる川の水面にぽってりとした黄色い花がいくつも浮かんで流れてくる。
本物の月が落ちてきたように蜜色の光を放ち、楽しげに水面を漂っていた。
「ああ・・・咲いたんだね。」
「綺麗ですね、先生。僕、何だか泣きそうです。」
「俺もだよ、蒼。」
「・・・あのお花の蟹さんはどうなったんでしょうか。」
「さぁ、俺には分からないが、きっとその命を全うしたんだろう。」
もしかしたら、その亡骸もこのまま水に乗って海までたどり着き、その種子を残せるかもしれない。
大海を漂う黄色の花に思いを馳せる。
水平線に消えて行く様は、沈む月にも見えるだろう。
ただ穏やかであるように、堅双は祈った。
そうしているうちにも二人の足元に、花たちが近づいてくる。
拾おうと川面に手を伸ばせば、突然蒼が姿を人からミミズクに戻した。
堅双が驚いているうちに川面に飛び、その力強い羽根でバシャバシャとわざと波を立てる。
その波に押され、花はまた川の中央に戻っていった。
そのあともミミズクは川から突き出た大きな岩に停まり、じっと花の行方を見ている。
岸に近づく花を見つけては、その鋭い爪でそっと掴み川の中央に戻すのを繰り返してた。
止さないか!と叫んでも、どうやら聞こえないふりを決め込むらしい。
しばらく、蒼の様子を見ていた堅双だが、ついに諦めたようにクスクスと笑いだした。
「蒼、もう行くぞ。今夜の宿を探さなくては。川の傍は寒くてどうにもね。」
川に背を向けて歩き出した堅双の頭上を、美しい鳥が旋回して付いて行く。
「俺が寝るまでにはその羽根は乾かしておけよ。冷たいのは勘弁だからな。」
などと嘯きながら、堅双は拾っていた花をこっそり袖の下に隠した。
この花を試すのは、もう少し後からでもいいだろう、なんて言い訳をしながら。
終わり
0コメント