たどり着いた里は、どうにも奇妙なところであった。
「先生?」
里に入ってすぐ足を止めってしまった堅双に、蒼はどうしたの?と声を掛ける。
「いや・・・なんでもない、と思う。」
「?」
「君が気付かないなら、害のあるものではないんだろう。」
「??なにか落ちていたとか?」
そんな蒼には応えず、堅双は里の中をゆっくり見回した。
なんであろう、このかすかに生臭い、肌を舐めるようなぬるりとした空気。
晴れ渡っていたはずの空もいつの間にか何かに覆われたように薄曇り、その分温くすら感じる。
湿り気の多い土の上もテクテク気にせずに歩いている蒼の横で、堅双はにわかに重くなった手足を持て余した。
見渡してみると、若い男女が畑の中にいた。
獣毛には見えないが毛の付いた奇妙な手甲を皆着けている。
小さな子供の姿も、年寄りも、見当たらなかった。
どこか室内に集まってでもいるのだろうか。
とりあえず話を聞こう、と堅双は近くにいた娘に話しかけた。
娘は、話しかけられて初めて、堅双たちの存在に気付いたようだ。隠すことなく驚いた表情をさらしている。
それでも、すぐに気を取り直して愛想良く答えてくれた。
「川、ですか。ええ、ここはすでに川のほとりと申しても良い程。ほんの少し東へ行くと川岸へ出られますよ。でも・・・。」
「でも?」
「今夜は月も出ておりませんでしょう?もう足元も暗くなって・・・今から行くのはあまりお勧めしません。」
え!と思わず蒼は上を見上げた。
暗いーーーー。
まだ来たばっかりなのに。
お昼にもなってなかったのにどうして?。
混乱した蒼は隣にいる堅双を見ようとしたが、夜目の利く蒼のはずなのに、どういう訳か暗くて良く見えない。
「せ、先生!」
慌てて振り回した手が堅双の着物に触れ、すぐにしっかりとその手に掴まれた。
暖かい堅双の手のひらにホッとして、蒼はギュウと指に力を入れた。とっさのことで兄様と呼べなかった蒼を責めるわけでもなく、堅双は不安げな指を受け入れる。
「大丈夫だよ。」
と声が聞こえれば、闇に慣れてきた目が堅双の姿を捉えた。
「もし、旅のお方。」
娘は変わらずそこにいて、ゆっくりとした笑みを湛えている。
「今夜はここで、どうぞ夜をお明かしくださいな。」
案内された家は、古いが広く暖かかった。
娘が声を掛けたのか、里人たちが集まってくる。
「旅の方がここを訪れるなんて、久方ぶりと聞き及びます。酒などは出せませんが、どうぞゆっくりして行ってください。」
焼き魚と穀粥と香の物、空腹の堅双にはありがたいご馳走が並ぶ。里人の親切に感謝しつつ、堅双はいただくことにした。
蒼も、難しい顔をしながらも頑張って粥を飲み込んでいる。
いくら夜とは言え、里人の目の前でミミズクに戻るわけにもいかないからだ。
「そういえば、皆お若い。この里にはお年寄りが見えませんね。」
腹も満ちた堅双が、室内を見回しながら言うと、一際体の大きく毛足の長い手甲を着けた、年長の若者がそれに応えた。
「私たちは、大人になるとここを出てほかの村に行くのです。そしてそこで子を生し、子供も育ちます。海の傍にあるその村で、波の音を聞きながら私たちも大きくなりました。」
「へぇ、不思議な風習ですね。」
「・・・不思議かどうかは、私たちにはわかりません。ずっと続いてきたことですから。」
と、若者は薄く微笑んだ。
どこから入るのか、温い風が囲炉裏の焔を揺らす。
何か耳鳴りのように微かな音がずっと続いていた。
夜も更けてきた。
延べてもらった床に入り、二人はひっそりと会話をする。誰が聞いているか分からないので、用心するに越したことはない。
「兄上。」
「なに?」
「あの・・・僕、ここの風の臭い、知ってる気がします。」
「思い出せる?」
「ううん、思い出せない。でも・・・きっと食べたことあると思う。」
「うん、そうか。」
それからしばらくの間、沈黙が続いた。
闇の中、目を開けて天井を睨む堅双の姿が、蒼には見えている。
やがて口元まで布団をかぶせ堅双が抑えた声を出した。
「蒼には聞こえるかい?ザワザワと微かに音がするんだ。近くに流れるという川の音かと思っていたが、これは違う。なにか生き物の移動する音だ。」
「何かの生き物って?」
「俺には一つ思うところがある。確かめたいんだ。頼まれてはくれないか。」
皆が寝静まった頃、音もなく飛び立つミミズクがいた。
月の光のない夜は、影もまた見えない。
・・・・・続く
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