祖母はどこからか行李を持ち出し着飾り始めました。
父が言うには、どうやらそれは母の持ち物だったようです。
今はもういない母が、ただ一つ私に遺してくれていたもの、それは美しい蒔絵のついた櫛でした。
高価そうで、とても父が買ったものとは思えませんでした。
なので、父の前で使う事が憚られ、自分の文机の抽斗にずっとしまい込んだままにしておりました。
祖母は、それを見つけ欲しがりました。
私は、どうしても其れを渡す気にはなれず、いっそ肌身離さず持っている事にしました。
私とて年頃の娘。
母譲りだという豊かな黒髪に、その美しい櫛を通すのは、密かな楽しみの一つでありました。
さくりと地肌を軽く引っ掻き、髪の間を梳る感触は、うっとりするほど。
良い子だ、と私の頭を撫ぜる父の手とはまた違う、どこか甘美な動きを持っていました。
そんな私を上からジッと見つめている赤い目を、私はもう振り向かずとも感じられる様になっていました。
決して嫌な気持ちにならないのが、不思議と言えば不思議。
慣れ、というには熱過ぎる視線。
同じ屋根の下に、競う様に着飾る女がもう一人。
祖母の面影をチラリとも見せず、まるで他人のような異質さを纏う女。
日に日に、祖母の私を見る目が険しくなって行きます。
父は時折、途方にくれた様な顔をして家を出たきり、暫く戻らないこともありました。
気持ちが波立った日には美雪ちゃんを誘い、祠のある水辺によく行きました。
水面を見ていると不思議と心が凪いでゆきます。
その日、美雪ちゃんを待つ少しの間、ふと悪戯心を出した私は、水神様の祠の中を覗き込みました。
以前見た時にはくすんだ鏡があるだけでしたが、なんとその時は覗き込んだ私の顔が映るほど、鏡面が澄んでいました。
誰かが、磨いたのでしょうか。
思わず手を延ばし鏡に触れたその途端。
瞬きの間に、すべての景色は消え、立ち込める靄の中に私は一人立っていました。
足元はキンと冷たい水に浸っています。
私は戸惑いました。靄の中に目を凝らすも何も見えません。
すると直ぐに密やかな水音がして、誰かが近づいてきました。
見上げる様な偉丈夫。
どこか懐かしげな顔をして、太い指でこの髪を梳り、私を見つめるその目はホオズキの色。
荒々しくもその胸に掻き抱かれた私は、驚く事も忘れて目を閉じました。
どんどんどんと、鼓動が耳に響いています。
どんどんどん。どんどんどん。
「みわちゃん?」
美雪ちゃんの声でハッと目を開けた時には、いつもの景色の中、祠の前で立ち竦んでいました。
「みわちゃん、髪に何か付いてるよ。光って綺麗なもの。」
そっと手でとって見ると、掌で煌めく蒼黒い、鱗。
途端に背中が粟立って、私は悲鳴を飲み込みました。
せっかく会えた美雪ちゃんにさよならもそこそこに、踵を返して家に走って帰りました。
息も整わないまま、見上げる梁。
二つの目が合いました。
ズズッと音がして柱を伝って降りてくる蒼黒い大蛇。
ゆっくりと近づき足元から這い上がって来ます。
震えているのは恐ろしいからでは、ありません。
ゴン!と音がして私の肩に何かが当たりました。
見るとまだ、熾火の残った炭の塊。
憎悪に燃えた目で、祖母が私に投げ付けた物でした。
「何故私を選ばない!」
祖母は、私が聞いたこともないような声で叫びました。
「何時も何時も、貴方が選ぶのはその女だ!」
何故だ!と狂った様に炭を投げ付ける祖母を、私に巻き付いた大蛇が静かに見つめています。
ガツッと炭の欠片が私の頬を打ったのを合図に、大蛇はスルスルと姿をあの靄の中の男に変え、力強い腕に私を抱いたまま、家を後にしました。
大きな足で数歩も歩いたあたりで、おぞましい断末魔の様な声が響いてきました。
慌てて振り向こうとする私を、男は腕の力を強めることで制止し、構わず歩き続けました。
私は何処へ連れて行かれるのでしょう。
どんどんどん、という鼓動を聞きながら私は再び目を閉じました。
………続く
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